年初に書いた、義母の件です。残念ながら6日に容態が急変し、妻と子らが朝一番で出発したものの、間に合わず、7日昼に他界しました。生前のご厚情に感謝いたします。
報せを聞き、義母と初めて会った1992年からの想い出が走馬燈のように走りました。義母は本当は娘を自分の近くに置いておきたかったはず。しかし、私と妻との結婚を許してくれて、今の生活があります。感謝しても感謝しきれません。
私は、来週センター試験を控えた長男がとんぼ返りで戻ってくるのを迎えました。妻に聞きましたが、このときの長男の態度は立派だったそうで、悲しい中でもこのことは妻を大変感動させたそうです。義母が病院から出るまでの1時間の間、長男は義母の頭をなでて話しかけていたそうです。多分、こういった行動がその後、戸惑っていた次男を落ち着けたのだと思います。
翌日8日に夜間バスにて会津若松に向けて出発しました。23:00新宿発、6時間と少し乗って、朝5:00過ぎに会津若松駅に到着。
雪が降っていたんですけど、思ったより寒くはなかったです。
少し待合室で過ごしたあと、会津川口行きの電車に乗り込みます。
斎場は会津柳津にあったのですが、iPhone 5で確認すると一つ先の郷戸のほうが近いことが分かり、そちらで下りることにしました。どちらとも無人駅らしいです。
妻には会津柳津からタクシーで来るように言われているのですが、今回は義母の愛した会津地方を歩いて確認してみたかったんですね。
この線は本当に山の中を走っている感じなんですが、雪も相当降っているのに電車のダイヤは乱れない。日本の鉄道のすごいところです。
地元の高校生が途中乗ってきたりするなか、景色を楽しみながら予定通りに郷戸に到着。
下りてみたら本当に山の中の駅、という感じなので、ここで遭難したら見つけてもらえるのか心配になりました。でも、車が折り返したあとがあるので、そのあとを追って歩きます。
少し歩いて振り返ってみました。左側に小さく見えるのが一応の駅舎だと思います。
写真では伝えきれないのが残念なんですが、本当に絶景でした。空気がきれいなので、景色がくっきりと見えるのです。
結構歩いて、ようやく細い道が終わります。
あとは、この歩道をひたすらまっすぐ歩きます。この雪のレベルは、例年の1/3程度の積雪だそうです。
思えば、義父が倒れて緊急手術を受けた2001年、当時5歳の長男と一緒に「遊戯王カード」を買いに、会津坂下町を散策したことがあります。あのとき福島は記録的な大雪に覆われており、北海道から来た旅行者の若い男性が、「いや、北海道より積雪がすごいですよ…」と驚いていたのを思い出しました。あのときに比べれば本当に歩きやすい積雪量でした。
こんなに見事なつららを見るのも久々でしたね。
そういえば、どの家屋も、見事な感じで雪が屋根から剥がれ落ちていました。なんか工夫があるのでしょうね。
そして1.5kmほど歩いて、斎場に到着。7日より、夜は妻と次男がここに泊まって番をしている状況です。職員さんは夕方に帰りますから。
控え室に安置されていた義母と対面しましたが、故人をみてもなかなか亡くなった、という実感が湧きません。
とりあえず、実家にいろいろなものを取りに帰るということで、今度は私が留守番します。私も6日夜からほとんど寝ていなかったので、少し休もうと思ったのですが、出社してきた職員さんや、親戚の対面で休む間はありませんでした。
そして家族も戻ってきて午後から納棺の儀。何回か体験したことはあるんですけど、今回のような「本格的」な納棺は今回が初めてでした。なんか、次男が頼もしくなっているのにびっくり。一生懸命納棺を手伝っていましたよ。
次男は恐がりで、7日の到着時は、義母に会うのも相当おそるおそるだったようです。義父の葬儀のときはまだ5歳で何も分からなかったと思いますが、今は12歳。さすがに、人が亡くなることを理解し、相当ショックを受けたようでした。大好きなお婆ちゃんでしたから。
ですから、その後大丈夫かどうか心配だったんですけど、心配は皆無でした。あの恐がり坊主が、夜でも一人でトイレに行けるのにはビックリです。
むしろ、私のほうが…。私たちは広い会食室の和室に泊まったのですが、なんか腹の調子が悪くて、全く寝付けず、トイレに行ったり来たりを繰り返していました。しかし、ちょっとうとうとしたと思うと、会食室のドアがガタガタとなり、職員か誰かが来たのかと時計を見るとまだ2:01。そのうち何かが中に入ったような気配を感じてそれが少しずつ近づいて来て…。この間ラップ音があちこちで響きまくって、私はというと怖くて頭からすっぽり布団をかぶっていました(苦笑。布団の外を見ることはできずに…。
その物音は私のすぐ隣の布団部屋の中に移って、その後もずっと音をならしていました。不思議と、広い会食室で響き渡っていたラップ音は静かになっていましたね。
私しか体験していないと思ったら、義兄も1:30頃から不審な物音で眠れず、怖くて布団の外は見られなかったそうです(笑。
もちろん義母ではなく、義母以外の何者かが丑三つ時に通って行ったのだと思います。
10日は葬儀。朝から大雪で、義母の心情を現しているのではないかというくらい。ちょっと感心したのは、葬儀も一つの顧客サービスであるということ。7年前の義父のときより大きく進歩しているのが感じられました。お坊様も7年前は一世代前の方でしたが、今回はその次の世代の方。若くて元気で、迫力もある。葬儀のプランをする人も、宗派別のしきたりなんかを織り交ぜてくれたりして、知識のない私たちにはありがたかったです。
葬儀ではなんと小学生の次男が唯一告別を行い(「おばあちゃんへ…」の呼びかけです)、その後出棺し、義父と同じ火葬場で荼毘に付されました。
背中も曲がっていたので、骨は厳しい状態かな、と思っていたのに、84歳にしてはしっかり残っていました。この年齢で7寸壺がいっぱいになるのは珍しいそうですから。2004年に亡くなった私の祖母も85歳で、同じ寸法の壺には入りきれなかった記憶がありますが、義母はカラダがずっと小さかったので、それでもしっかり骨が残っていたのには驚きました。
7年前に心臓手術を受けており、骨をつなぎ止めていた金具が3本出てきていました。
義母にはしっかりお別れが出来ました。合わせて、わずかな時間での人の成長に触れることもできました。私たちのような大人もそうですが、どちらかというと引っ込み思案の次男が精力的に活動しまくっていたことですね。
通夜では、女性陣が寒そうにしているのを見たのか、一人どこかに出かけていって、その後膝掛けをたくさん持って来て女性陣に配り歩いていました。もともとこんなことをできる子ではなかったんですよ。何が彼をこんなに変えたのか?
高齢ということで弔辞が誰もいないので、「ボクが読む」と立候補。事前の打ち合わせで挨拶の順番とかをどうしたらいいか分からなかったので、葬儀プランナーさんのところへ行って自分で打ち合わせしてきました。そして、驚くほど上手に告別して、周囲の涙を誘いました。
さらに、ちょっと面白かったのが、戻ってきての初七日。ここで般若心経などが読まれたのですが、なんかこれ、すごく「カッコイイ」ですね。速いリズムで一気に読み上げるお経。義父のときは、お坊様が高齢だったこともあってそんなに印象に残っていないのですが、今回のお若い方はやはり違う。本当に良かったですよ。
初七日の儀式が終わったら、参列者に配られた般若心経などが収められた冊子は回収する決まりになっていて、係の方に戻しました。すると、次男が「この本、ほしい」と言い出します。正直分からないでもなかった。般若心経、かっこよかったですから。またここで次男は、斎場の係員のところに行って、どうしても冊子がほしいと交渉し始めました。そして、見事に1冊だけゲットして帰ってきましたよ。
いや、本当にこんなことができる感じの子ではなかったんですよ。なにより、恥ずかしさが先に立つ子ですので。それが、今回は大人と交渉しまくって、自分の立ち位置を決めたり、ほしいものをちゃっかりもらっていたりする。本当に成長しましたねぇ。
さすがに数日斎場に泊まって疲れていると思うので、葬儀後帰途につく私が次男を連れて帰ろうか、と提案したのですが、彼は自分の意志でもう少し残る、と言いました。
妻は、今回ずっと横に付いていた次男が心の助けになったそうです。彼女が乱れそうになると、事前に察してなんか話しかけてくるのだそうですよ。大人の心の動きを察知して、自分から先回りして大人をコントロールするなんて。ということで、次男は忌引き扱いで、妻についていてもらうことにしました。もう安心して任せられます。
そして、私だけみなさんと別れを告げて帰途へ。今回はタクシーを呼んでもらったので、会津柳津から帰ります。
この駅は無人駅なんですが、ボランティアの方がこうやってストーブを焚いてくれているみたいです。いろいろとお話を伺いましたが、その後もう一人地元の方が来られたので、電車が来るまでの間、いろいろと教えていただきました。ここはまたいずれ、来てみたいと思います。
会津若松駅は「八重の桜」のポスターだらけでしたけど、そういえばここには綾瀬はるかさんが見当たらなかったな…?
…今回、義母が他界して、いろいろ考えました。今さら、「人って何のために生きているのか」という根本的な疑問が頭を駆け巡っています。iPhoneでいろんなサイトを調べましたが、当然そんなことの答えは書いていません。人は100%死ぬのに、何のために生まれてきて、死ぬまで生きようとするのでしょうか?生まれなければ死ぬこともなく、「無」なので、それが一番いいはずじゃないか、というのが最も自分の中では合理的な答えかもしれません。では、生まれるというのは無駄なことをしているのでしょうか?
でも、人がいる「世界」が前提にあって、そこに生まれてくることで、「人」のために何かができる人生を作ることができます。それが「生まれる」意義で、それを次世代にひきついで成長させて「死ぬ」という意味を持ったサイクルにも思えてきます。事実、退化した部分もあるのでしょうけど、人間は大きく進歩してきたはず。
このブログでも、私がなぜか4年に一度ピークと底を迎える話をしましたが、今回の義母の他界によって間違いなくこの一年は底です。大事な人が亡くなることよりつらいことはほかにはないですから。
しかし、今回、長男や次男が取った行動を聞いて、あるいは目の当たりにして、進歩することによって、底の年でも自分を成長させ、有意義な1年にすることはできるのではないかという気がしてきました。
私なんかまだまだです。今回の私にとっての教師は子供たちでした。今回の大きな悲しみを乗り越え、この1年で私たちは大きく成長しなければなりません。
コメント
コメント一覧 (2件)
こんにちは。先ほど日記を拝見しまして、ショックを受けました。
(ちょっと更新が伸びていたので、まさか・・とは、思っていたのですが)
今更ではあるのですが、改めましてお悔やみ申し上げます。
今回のご不幸事。お子さん達の成長にも触れておられますが、日々成長している様子が微笑ましいと言いますか。いつの間に?…と言う様子が伝わってくるように思います。
お義母様の事は非常に残念ですが、人の死に向き合うこと、次の世代に託せる事が大切であることを、改めて考えずにはいられません。
それにしましても(↑)さすがに豪雪地帯です。お写真からも凄さが伝わってくるような・・不謹慎ではありますが、雪を見るとテンションが上がります。
NEX-5をお使いのようですが、かなりピシっと撮れていますね。ミラーレス導入はまだまだ先の事ですが、かなり気になっております。
sadaさん。早速ありがとうございました。
お正月に普通に電話で話もして、今年一年もよろしくね、なんて話をしていたのですが、本当に何が起こるか分からないものです。
思っていたことがなかなかしてあげられなくて、後悔していることが多々あります。子供たちは特に義母にはなついていたので、今回のお別れはいろんな意味で大きいと思います。
そう、今回は義母が愛した福島の風景を撮ろうと思って、充電も出来ないままNEX-5Rを急遽バッグに詰め込みました。その雪景色は想像をはるかに上回るスケールで、私を包み込みました。幸い、到着したその日はさほど寒くはなく、ゆっくり歩けたのは幸いでした。
義母が住んでいた実家はさらに奥深くの「昭和村」という「からむし織り」の名産地なんですが、妻と次男は今日はまだそこに残って、後片付けや諸手続などを進めているところです。すぐ裏は山になっていて、近くに川も流れているというすばらしい場所です。今回私と長男はそこまでは行けなかったですけど、実家の維持の手伝いなど、定期的に行きたいと思っています。